かわはこわい
こんにちは。さきよです。 冬が始まったような感じです。 まだ真夏のような陽射しの中、8年ぶりの来日 、 7年ぶりにに再会したマルヤと、トゥルクへ行ったの昨日だったかなくらいで、この7年間に起きたことを大体全部お互いに話して、 その後わたしはやっぱり熱を出して寝込んだり、曲作りをまた再開したりしています。 喘息は良いお医者さまに出会ってメキメキよくなっていて、肺活量も89歳くらいだったのが良くなって年相応になっているようです。ありがとうございます。 昨日、ヘッセについてのドキュメンタリーの動画の中で、クラインとワーグナーっていう作品の一節、 「人が恐れていることはただ一つ自分の身を投げ出すことだ。 不確実なものへの一歩を踏み出し、あらゆる安全の向こう側へ身を投ずることだ。」 という言葉を聞いて、望んでいるか否かに関わらずどこかに放り出されたら困ると、保身に走れば私のように何かしら病気になってしまうのかなって思っていました。 外からの流れを否定して、自分というものが立ち現れた錯覚を感じたり、自分を守る力がエゴで、本当に小さな自分だけしか守ってない時、卑怯な人間になりたくないと思う人間もそんなにはいないっていう世界の中で、大きな流れが波のようにインヤンの記号に記されていて、波打つ中でこの世が成り立ちを表しているとして、そして小さな丸があるのも厄介で、あれは物事を勘違いや誤解に導く“素“だと思う。 でもあの点は受け入れなければいけない大切な丸みたいに思えます。 何か善いことをしている人を真似ても、ひとりひとり 人間は違うっていうことが頭から抜け落ちていると、 そんなに人は違わないっていうことも理解できなくなってしまう。 自分自身が自分に取り憑く「現実みろ」って呪文を唱えるおばけになりたくないし、 その徒労もわたし自身ていうことだけど。 その9月に、マルヤに私が書いていたお話について説明している時、何度か身を投げ出したつもりでもまだ奥底に川や大きな流れはこわいって恐怖心があって多分川のお話を書いていたのだけど、実際に、わたしは人知れず母の田舎の秋田県の川で溺れたことがあるのです。 おとなになってからその話を母にした時、 「ママもあそこで溺れたのよ。橋の上から川を見たときにキラキラと光っているところがあるから、絶対あの光ってる場所で泳ごうと決めて泳いだら、溺れたのよ。」 って